雑多に

トイレ掃除しながら、いろいろ考えてみたので発表します

 

①人を簡単に判断するひとは回答を先に出してから、証拠を集めだす

→だから、「ほら、だと思った〜」になる(そっちのほうが考え方が楽(簡易的))

 

②わたしは理由を集めるのだいすき

→ひとのことを考えるときにたくさん事実を合わせてから最終的に「こうなるのね」って考える

すきなものに関しても、⑴⑵⑶…って理由をたくさん見つけてから最終的に「これがすき」って思うから、語ることがすき、語れる理由がたくさんある

自分が納得のいくものしか好きだと言いたくないし、自分の答えに自信持っていたい

 

③自分がいっしょにいて苦手なタイプ=①みたいなひと

→根本的なものの見方の違いが顕著に現れる

そして、①タイプのひとは日頃でも人に対してでなくても判断が先だから、会話が一方的になりがち、その人の最終的な判断にこっちが組み込める要素があるなら楽しいけど、既に下されてる判断を変えられる隙すらないと会話する楽しさが見つけられない…

 

④自分がいっしょにいて好きなタイプ=いっしょに考えて意向を変えられるひと

→別に自分がそのひとの一部分を変えたいのではなく、そのひとの判断する基準が理解できるものだとわたしが自分の意見を変えられる=あたらしい発見

→知らないものを知るたのしみ

 

⑤そもそもわたしが自分の苦手なタイプと全くソリが合わないから、お互い心地良くない

→③にも書いたけど、「いや、わたしがこう思ったからこう」っていう人にいくら説得しても変わらない、し、変えたくないと思ってるひとに対して「こういう見方もありますよ」っていう提示は向こうからしても不快(なことが多い)

わたしがどれだけ自分の回答に自信を持っていても、自分と相手の基準が違うとそれは無意味

人それぞれ基準が違うことへの配慮が無いことも多々、うれしいの基準低くたっていいじゃんね

 

⑥会話のお題としての「これおいしいよね♡」「わーかわいい〜♡」が苦手な理由:大体のひとに共通する気持ちをわざわざ共有し合う理由が見つけられない

→④のように、新しい発見がすきなので、このチーズなんとかのこれおいしい♡はみんなわかるおいしさなので

その人を知ることがすきだから、ここのこれのこういうところ(新しい着眼点)がすきっていう具体性があると、その人の新しい一面見れた気がしてうれしい、かわいい赤ちゃんの動画♡はふつうにかわいいからわかる、うーん、それを伝えてくれる人にもよると思うけど、「これかわいくない?♡」「これおいしそうじゃない?♡」の気持ちを強制しようとしてくるのが苦手、「もちろんYESだよね♡♡」みたいな

大体そういうとき否定すると「え!なんで!かわいいじゃん!!!」みたいな薄めの返答がくるし、「わたしはそう思えなかったので…」が通用しないと悲しい、多様性を認めてくれ

考えを共有して認め合うのと、気持ちを共有して同じものにするのは、別、後者は最終的なゴールはバッチリ決まってて違う手段で向かってるだけみたい、前者はスタート地点はいっしょだけどゴールはそれぞれあるイメージ

*もちろん、「○○ならこういうのすきだと思って!」っていう愛のある提案は世界一すき、愛で溢れてる

 

⑦その結果「なんか変わってるね」判定をその人のかでされ、その人のなかでそれが良いのか悪いのかでその人のなかで勝手にわたしのイメージが進んでいく

→多様性✌🏻さいこう✌🏻なので、ナンバーワンよりオンリーワンなので、「なんか変わってる気がするけどそれも個性だよね」っていう人ならいいけど、「大衆と合わせられないのヤバい人」ってなってしまうと話が変わってきてしまう

→そういいつつも「ちょっとだけ変わってる」オーラに留めておくこともできなくはないので、それくらいにしてる

 

 

以上です、たとえばなんでこう考えるようになったかをチラッと考えたんだけど飽きてやめました、またいつかにする