不器用なやさしさ
濵田さんのお誕生日ということでいろんなことに思いを巡らせていました
6月ごろのananの表紙にて「強さは愛で創られる」というフレーズと共に紹介されていた濵田さん
本当にその通りで、彼の彼らしさは愛が根本にあって、人への思いやりだとか優しさがあるんだと勝手に考えてる
その一方で、謙虚が謙虚に重なって脆さとか儚さが見えるところもあるよね
優しいひとってすごく不器用で
どこまでも優しくあるのに、自分には優しくすることが苦手だから
生配信のライブでも濵ちゃんらしさが伺えるところがたくさんあって、特に団扇のファンサのところがすごくすきだった
どこかの日に淳太くんが「濵ちゃん魅力的だから自信持って!」みたいな団扇を持ってて(ファンから届いたものだけどね)、こういうフレーズ濵ちゃんに対して向けられているの何回も見てる記憶があって
夏の松竹のライブでもあったし、ラジオでも自分なんて…って話してるのよく覚えてるし
優しくていろんなことをちゃんと見てるから、自分の弱さもいっしょにわかってしまうところがあって、だからこそ「自分はこれをがんばろう」ってなる濵田さんは本当にすごい
周りのみんなの凄さ、自分の無力さ、それを日々少しずつ違和感を覚えながらも着実に日を重ねて行って、
せっかく日々を過ごすなら、と努力できるところが本当にかっこいい
自粛期間でしっかりした日々を過ごすようにしてるってインタビューで何度も見かけてほんとうに尊敬……
そういうこともあるんだけど、配信で濵ちゃん誕生日をお祝いして、「こんなに素敵な仲間が…」って言って言葉に詰まって涙が溢れてしまった濵田さんが本当に素敵でわたしも涙が止まらなかった
濵田さんの優しさが、愛が、しっかり受け止められて返してくれる存在がたしかにあることの尊さ
やさしいひとがやさしくあることのできる環境の美しさ、「やさしい」が当たり前にできる素晴らしさはその人だけじゃなくてそうあることのできる環境がしっかり存在していることがあって成り立っている
美しくて尊くて、ただの感動の涙と違って…
自分に自信ないとか、だからいろいろがんばってやっているって言っていた濵ちゃんに、振り返ったらこんなにあたたかくて優しい仲間がいるのは濵ちゃんがいままで築いてきた優しさの賜物で、
側からみたらそんなこと当たり前だけど、言葉にすることできっと本人が気づいたんだと思ってる
自分ではいろんなこと客観的に見て、いろんなひとの良さはわかっているつもりでも、自分のやさしさの凄さなんて本人は全くわかってないから
だから、そんな濵田さんの不器用さ、決して自分が1番すごいとは言わず「みんなのおかげで〜」って続ける謙虚さ、そしてみんなを想って泣く優しさ、
全てが素敵で、あたたかくて
一生懸命なときにドジってみんなに「もう濵ちゃん〜」って言われたり、「そんなときもあるよね」って励まされてるところ、
勿論逆も然りで大抵のことはフォローしてあげる濵田さんも、
それが存在できているジャニーズWESTという環境が本当に素敵だと思います
あらためて、
濵田崇裕さん!お誕生日おめでとうございます🎊🎂♡!せーのでおめでとう〜ハッピーバースデーハッピーバースデー〜
えらいね
先輩と話してて、取り急ぎうれしかったとことだけ書き残しておきます
ひとのこと信じるのは自分の勝手だから押し付けちゃいけない→裏切られた云々は自分の勝手
だから信じていいかとか同じ類かは「たぶん違う」という前提で接する必要がある→もし同じだったら嬉しいっていう方向性で
その考えに至るまではやっぱり経験していくしか
ないね
考え抜いてもダメなときは諦めも肝心、踏ん切りをつけて良いタイミングをしっかり見極める
(先輩は自己責任論者)自分でがんばってがんばって考えてもダメなときは環境周りがダメだということ、そういうときは「しょうがない」で割り切ることも大事、自分じゃどうしようもできないこともある
「意外とひとって考えないですよね」っていう話のとき(わかる!全く考えないひとたちってどうやって生きてるかまじで不思議ですよね(NO批判)っていうはなし)
考えて考えて生きてるひとのほうがしらなければよかったこととか、辛い思いするの悲しくないですか?→でも確実にその先にある幸せのほうが絶対に幸せだもんね
自分で決めた根拠のある決断なら自分で納得もいくはず、考えずに周りに決められたことだと「周りが悪いから」って結局周りに当たってしまう
それなら自分で納得できるくらいがんばるのが良いね
こうやっていっぱい考えられるだけでえらい
たとえ答えがでなくても、たとえぐるぐるなったとしても、ちゃんと考えようって思うようにできてるだけでえらい
考えたさきで、少しでもひとに優しくできたらいいよね
以上でした
ふつうに車で40分くらい話しただけだけど、泣きそうになったし、
先輩には「カウンセラーになったほうがいい」ことと、「本出したほうがいい」ことと、「先輩の言葉でわたしの友達たくさん救えるとおもいます」ということはお伝えしました
概念、哲学、心理学的なはなしってたのしいですよねっていう
フラッシュバック
きのうのお昼ごろ、
青柳カヲルさんが亡くなって、かてぃちゃんがZOC卒業することになって、
ずっとあると思っていたものが少しずつ崩れていくのを感じて、キシキシ音が聞こえるようにヒビが入っていくような気がした
正直青柳さんの絵は迫力があって怖かった、こんなに生死に向き合える力がかっこいいと思ったけど、こんなに繊細に物事を描くようが怖くて直視できなかった
だからこそ現実の醜さだとか、存在してしまう事実に、よく要られるなと思ってた、
物事を考えるのはだいすきだけど、わたしは深く行きすぎてしまうと帰ってこれない自信があるから
ZOCも正直ちゃんと追えてなくて、靖子ちゃんの作るZOCの曲はすきだけど、アイドルとしては自分の好みとは違うし、あんまりちゃんと見てなかった
かてぃちゃんは存在がかっこよくてすきで、でもかわいいところもあるってちらほら見るから余計すきだと思ってる、かてぃちゃんになりたい〜〜って思いながらチラチラ見てた
ただZOCに対して熱い思いがあるのは知ってたから、卒業はめちゃくちゃ不思議だな、と、みんな思ってるだろうけど
靖子ちゃん周りのこうした変化が、正直めっちゃくちゃ意外性はないというか、予想できなくもなかったことが、起きてしまったことに対して逆に冷静になった
こんなに繊細に生死に携わってきたひとが居なくなってしまうことはわからなくもないし、でもいざ居なくなってしまうと悲しみだとか勿論ある、
甘えてたんだよな現実に
絶対に全てこのまま存在すると
永遠なんてなにもないし、儚いが尊いのに、他のこと将来のことなんて目を瞑っていまだけを強く信じて
そして、こうやって勝手に自分のことで不安になって、脆くなる、何回やるんだろうこれ……
だから「周りに感謝を忘れない」は大事なことわかる、ただその行為をすればいいだけじゃなくてその奥にある意味を、すべての理由を忘れないように、
疑心暗鬼になる必要なんてないって自分で言い聞かせる、ただ嫌な過去がフラッシュバックして勝手に襲いかかってくる、マジで消えてほしいよなあの頃の気持ちのせいでいまこうなってるのマジで意味わからないし
ひとも環境も違うんだから、同じはずがないのに、自分の都合で
勝手に
しかもいま幸せが溢れてるから、もう全部いいかなって勝手に思い始めてる、全然良くないんだけど
不幸知らない状態で終わるほうがよくない?って頭にチラつく、別に何かするわけでもないけど
幸せになるの向いてない、不幸も向いてないけど、ふつうに生きるのが苦手なだけ、平穏に向いていない
肩の力を抜いて、リラックスできる日々を受け止められるようにがんばります、せっかくの平穏を
1歳
昨年の11月末にはじめたブログも、1年経ちました、はやいね
さむーい渋谷でいっしょに居酒屋でなんか深い話して、帰り道に「ブログやるわ!考えること多いし!」っていう気持ちではじめたね、懐かしい
いろいろあったねぇ〜
去年の12月ごろのわたし
↓
…そうです、めちゃくちゃ現実に疲れてましたね
いろいろあったもんねぇ〜〜(うんうん)
いまもいっぱい考えてスッキリさせてるけど、前はいっぱい考えても苦しくなるばかりだったから辛かったね…考えても解決策が出ても、それが必ずしも良い方向ではなかったから、解決するはずなのにズルズルと……
お望み通り全然違う土地全然違う環境にいるよ!よかったね!うんうん!
最近はうれしいことたくさんで、受け止めきれないくらいしあわせが多くて不安になる、すぐ不安になる性格だから良くないのはわかってるんだけど
「え〜しあわせだな…」って口に出しちゃうくらい、それで「しあわせだね」って笑顔で返してくれるほどしあわせを共有できているとこがどれくらい素敵なことかわかるから…
「わたしこんなにしあわせで大丈夫かな?」って不安になって笑いながら聞いちゃったけど、「大丈夫だよ」って笑顔で言ってもらえるからちゃんと堂々としあわせを感じさせてもらいます
友達にも同じこと聞いたら、「今までがんばってきたんだからしあわせでいいんだよ」って言ってもらえたし
そんなふわふわしたいま、いろいろあった1年、変化の波に世界もわたしものまれて、いま、
きっとこれからもいろんなことがあって、それでもちゃんと時間は流れて、考え方も変わって行って、
でもあのときのあの感覚、このときの悲しみは忘れないようにこうやって残していく!
いつでも新鮮な状態で見返せるように、色褪せないように
そんなかんじで、まだ続けていくね
ほどよい塩梅で
ここ最近の現実を未だに受け入れきれていないのですが、日々は過ぎていくので、気づいたらもう1週間くらい経ちそうです
時間って目を閉じる瞬間よりもはやく過ぎるから、いつも捉えることができない、時間といっしょに動いていれば置いていかれることもないけど、一度腰掛けてしまうと気づいたらなくなってる
気づいたら夜で気づいたら朝で知らない間に昼が終わって、目を瞑ってる間に季節は流れて、「マフラーなんて早すぎるかな笑」って笑ってたのに街中で浮かなくなってくる、クリスマス備えるのはやいよねまだまだなのに!って思ってたツリーだってそうでもなくなってる
こうやって時間が気づいたら経って、知らない間に現実が当たり前に変わっていく、自分で掴んだはずのものが元からあったかのように居座ってる、
でも気持ちは色褪せないから、毎回感動できる、そっか本当だったんだって思える
そうなったらいいのにねって笑ってた日々が、まさかそうなるとも思えなかったことが、こうやって存在することに途轍も無い感情がこぼれそうになる、あふれそうになる、
側から見れば別に大したことなくても、分かりきっていた事実だとしても、いざこうなると「本当になるんだね」って
ひとつひとつの感動を忘れずにいられたら大丈夫かな?傲慢になりたくない、「そんなの当たり前だよ、なに今更、笑、」ってならないようにいたい、全部の理由は何処かにあってそれが繋がってきっと広がっていく、広く広く深く深く、伝播して知らないところまで、そのひとつひとつの理由を見逃さないように、
腰掛けたままでも目を見開いていればきっと置いて行かれないかな、観察力だけ忘れず、眠たくても
意識しすぎるのも良くないんだけどね、他人のことばかり考えすぎて自分が破滅してしまうのは良くない、だから程良い塩梅で
雑多に
トイレ掃除しながら、いろいろ考えてみたので発表します
①人を簡単に判断するひとは回答を先に出してから、証拠を集めだす
→だから、「ほら、だと思った〜」になる(そっちのほうが考え方が楽(簡易的))
②わたしは理由を集めるのだいすき
→ひとのことを考えるときにたくさん事実を合わせてから最終的に「こうなるのね」って考える
すきなものに関しても、⑴⑵⑶…って理由をたくさん見つけてから最終的に「これがすき」って思うから、語ることがすき、語れる理由がたくさんある
自分が納得のいくものしか好きだと言いたくないし、自分の答えに自信持っていたい
③自分がいっしょにいて苦手なタイプ=①みたいなひと
→根本的なものの見方の違いが顕著に現れる
そして、①タイプのひとは日頃でも人に対してでなくても判断が先だから、会話が一方的になりがち、その人の最終的な判断にこっちが組み込める要素があるなら楽しいけど、既に下されてる判断を変えられる隙すらないと会話する楽しさが見つけられない…
④自分がいっしょにいて好きなタイプ=いっしょに考えて意向を変えられるひと
→別に自分がそのひとの一部分を変えたいのではなく、そのひとの判断する基準が理解できるものだとわたしが自分の意見を変えられる=あたらしい発見
→知らないものを知るたのしみ
⑤そもそもわたしが自分の苦手なタイプと全くソリが合わないから、お互い心地良くない
→③にも書いたけど、「いや、わたしがこう思ったからこう」っていう人にいくら説得しても変わらない、し、変えたくないと思ってるひとに対して「こういう見方もありますよ」っていう提示は向こうからしても不快(なことが多い)
わたしがどれだけ自分の回答に自信を持っていても、自分と相手の基準が違うとそれは無意味
人それぞれ基準が違うことへの配慮が無いことも多々、うれしいの基準低くたっていいじゃんね
⑥会話のお題としての「これおいしいよね♡」「わーかわいい〜♡」が苦手な理由:大体のひとに共通する気持ちをわざわざ共有し合う理由が見つけられない
→④のように、新しい発見がすきなので、このチーズなんとかのこれおいしい♡はみんなわかるおいしさなので
その人を知ることがすきだから、ここのこれのこういうところ(新しい着眼点)がすきっていう具体性があると、その人の新しい一面見れた気がしてうれしい、かわいい赤ちゃんの動画♡はふつうにかわいいからわかる、うーん、それを伝えてくれる人にもよると思うけど、「これかわいくない?♡」「これおいしそうじゃない?♡」の気持ちを強制しようとしてくるのが苦手、「もちろんYESだよね♡♡」みたいな
大体そういうとき否定すると「え!なんで!かわいいじゃん!!!」みたいな薄めの返答がくるし、「わたしはそう思えなかったので…」が通用しないと悲しい、多様性を認めてくれ
考えを共有して認め合うのと、気持ちを共有して同じものにするのは、別、後者は最終的なゴールはバッチリ決まってて違う手段で向かってるだけみたい、前者はスタート地点はいっしょだけどゴールはそれぞれあるイメージ
*もちろん、「○○ならこういうのすきだと思って!」っていう愛のある提案は世界一すき、愛で溢れてる
⑦その結果「なんか変わってるね」判定をその人のかでされ、その人のなかでそれが良いのか悪いのかでその人のなかで勝手にわたしのイメージが進んでいく
→多様性✌🏻さいこう✌🏻なので、ナンバーワンよりオンリーワンなので、「なんか変わってる気がするけどそれも個性だよね」っていう人ならいいけど、「大衆と合わせられないのヤバい人」ってなってしまうと話が変わってきてしまう
→そういいつつも「ちょっとだけ変わってる」オーラに留めておくこともできなくはないので、それくらいにしてる
以上です、たとえばなんでこう考えるようになったかをチラッと考えたんだけど飽きてやめました、またいつかにする
夢みる頃を過ぎても
加湿器をやっと導入して、乾燥せずに寝られるぞってたのしみにしてたのに、
眠りに入って1時間で、寝苦しさで目が覚めてしまった
お腹も絶妙に空いてるし、なんかちょっと暑いし、どこかからかわからない息苦しさもあるし、
眠りにつく前に、奥山由之さんのすきな写真たくさん眺めてて、そうするとわたしのなかの写真撮りたいという気持ちが湧き出てきて、
今まで撮ったフィルムカメラでの写真を見返すと、自分でもいいなと思える写真がたくさんあって
奥山由之さんの写真が本能的にすきというか、ハッキリと彼の影響を受けているかはわからない、ずっとすきだけど、どのタイミングですきになったのかも覚えていないし、
ただ、下北のヴィレヴァン の写真集コーナーでBACON ICE CREAMを眺めながらめちゃくちゃすきだと思ってたことだけは覚えてる、でも3000円は高くて出せなかったから買えなかった、
大学2年のときに奥山由之さんの写真展に行ってホクホクしてたことは覚えているし、その前後から写ルンですはじめて、半年後くらいにフィルムカメラはじめた気がする
わたしも写真撮りたい!!!!が強かったことは覚えてる、ただ他のヒントが少なくてわからない
最果タヒさんの紡ぐ文章がすきで、エッセイ集を読んでる、そのなかで、写真の良さは「人の存在を丸々肯定できる、かわいいひとにかわいいって伝えられる」っていうところがあって(めちゃくちゃ丸っとまとめてしまった、ごめんなさい)
自分の見えない自分を、他者の視点で視覚的に伝えることができるのって写真特有のことで、
自分がこんなふうに笑うのとか、こうやって動いてるだとか、その愛おしさをその人なりに抜き取ったのが写真なのかな、と、
あ、だから写真撮るのだいすきなんだなと改めて思った
いつもどうやったらその人の良さをその人に伝えられるかを悩んでいるけど、手っ取り早いのが写真だった
iPhoneのカメラだと連写しちゃうんだけど、ブレてる写真ほどそのときの高揚感が映る気がするし、たくさん撮ると「まだ撮るの?笑」の照れた笑顔とかもさいこうにかわいい、しかもiPhoneで「写真を撮る」行為がより身近になったから、より自然体な写真がたくさん増える、ありがとうiPhone(?)
フィルムカメラは丁寧に1枚ずつ撮っちゃうけど、でもあたたかさとか光がそのときの気持ちが乗り移ったみたいで、しかも丁寧に撮るから、撮ったときの気持ちまで思い出される
いつかはぜんぶ思い出になってしまうんだと思って、忘れないように残しておこうって思ったことも
むかし、自分が体験したことは自分にしかわからないことだから、自分がいなくなってしまったら、折角味わった全てのことが消えてしまうことが辛くて泣いてた小四のとき、
きっとその悲しみを少しでも軽くできるのが写真を撮ることなんだと思う
視覚だけでも切り取れるなんて素晴らしい技術じゃない?
10月半ばからきのこ帝国の「夢みる頃を過ぎても」を無限に聴いてるんだけど、現実を真っ当に受け入れられないからふわふわと自分の見たいものしか見ない、どうせ覚めてしまう夢に浸って、きっと時間が経ってしまえばその割合が減っていってしまうとわかっていても、この息苦しささえも思い出せなくなるときがくるから
それなら苦しいまで限界まで行って、それだからみえるさきまで見たい、その心地よさも知ってるから、空が明けてきて世界が広がる感覚、逆にどこにも行けないことを思い出させる閉塞感、どちらも知ってるから、
だから苦しくても、噛み締めて、いつか思い出して、懐かしむことができたらって過ごす、きっとできるから、そうやってしがみついてるときの写真ってすごく美しいから、絶対にいまの景色を忘れたくないいまの気持ちを忘れたくないって深く刻まれていることがわかる
そんなかんじ!