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『靖子ちゃんがブログを辞めてしまうこと』
わたしたちはネットの在り方について真剣に考えなくちゃいけない場面まで来てしまいました
少しの文字や1枚の写真ですべてを勘繰られる時代になってしまいました、
その美しい過程はすっ飛ばして、結論ばかり求められてる
その究極の結論が、『わたしもわかる=いいね』なら悲しいね
何があってこう考えてるんだろう?何がそう人を動かしてるんだろう?も無しに、「この人がこう言ってるならそうだろう」を率直に拡散
140文字しか入らないTwitterが流行するのも、端的でわかりやすいから好きだけど、極論だけ拡散されたり、本当はもっとあったのに一部だけ抜粋されて世間的不正解に仕立てられたり、
もっといい使い方できるはずなのに
花ちゃんの件も、「現実とテレビ番組をごちゃ混ぜにするな」っていう批判は正しくなくて
あの番組を見てるだけでもだいぶわかることたくさんあった、あの番組を見て、彼女の人となりを想像すれば彼女に悪口なんてないのに、ひとつふたつの行動をその場面だけで切り取って判断して「こいつおかしい!!!!」ってみんなで寄って集って言い掛かりをつけて
実際に正直わたしはごちゃ混ぜにしてたけど、あの番組見てるだけでも彼女の人の良さはわかるもん
そんな言い掛かりをつけたいがために、いい標的を見つけたから、彼女のほかの発言は一切聞かずに「だから駄目なんだ、だから嫌い〜!」って勝手に
全部をちゃんと見てあげようよ、なんでそうやって全部を知らないのに全て知ってるように大口叩いて悪いこと言えるの?
ZOCの騒動で靖子ちゃんがたくさん悪いこと言われてて…誤解されるのもわかるし、真実は本人たちしか知らないけど、
たしかに靖子ちゃんも悪いかもしれないけど、
証拠集めみたいに過去のものを遡っては切り取って貼りつけて「ほら、だから悪者」みたいになってるのも凄く嫌だった
いつも
いつもそうじゃん、
今日公開された記事でも、彼女は「共感がいろんな些細な感情を殺す」って言ってて、(歌詞の大体の抜粋)
いや、わたしのすべてをあなたが完璧にわかる訳ないじゃん、でも全部「わかるわかる」で片付けられるの凄く嫌だよね、わたしは嫌だ、
「駄目なところも愛してくれ」も共存するから難しいんだけど、辛いよねわかるよって言われると嬉しいし安心するけど、如何にも「見抜きました☆」とかそのわかるよって言ってくれたのに、他の人にはそのわかった結論しか伝えないような苦しみ?
例えば、わたし日焼け止め塗った時に肌がべたべたするの嫌で、夏でも長袖着てたりするんだけど、太陽に当たるのも嫌だし、でもそれは「=日焼けしたくない」ではないのね、それを伝えたはずなのに、理解してくれたはずなのに、別の日には飛ばして「長袖着てて偉い」みたいなこと言われるとすごく悲しい、あのときわかってくれたじゃん!!なんでそんなこと言うの!!ってなる(例えあってる?????)
その一瞬の「わかる」が快楽になる気持ちもわかるけど、
でも、その「わかる」ばかりに呑まれて自分で考えられない頭になるのが1番嫌だよな
大元の、なんでわたし「わかる」って気持ちになったんだろうを、大事にしないと駄目だよね、そこの根拠に自分のほんとの気持ちがあるはずだから
ネットを、普段のもやもやを考え抜いて解消させる場所にしてるから、たぶん世間一般の使い方と変わってることは重々承知してる
昔からそうだから、言葉を写真を使って自分を示すことがすきだったから、でもそれが主流になってくると言葉とか写真が全てだと思われてしまうと、それも違うんだよ
その奥にいるわたし、そう言いたくなった理由、この写真を撮りたくなった衝動、すべてが一致してはじめて解釈がうまれる
……はずなんだけどね(まあほとんどの場合ただの衝動なんだけど)
常にこうやって言葉を発してるから、いつも病んでるとか思われてそう、って実は結構悩んでる
いつも気持ち病んでる音楽聴いてるからやばそう、って思われてそうって自覚はある
普段無意識にがんばって力入ってるから、ひとりになってゆっくりゆるーく言葉を紡いだり音楽に身を任せたりするのがすきなの、ただそれだけ
すべてにきっちりした理論なんてない、同じ人間のなかに矛盾なんて幾つもある、それを踏まえて
大丈夫でも大丈夫じゃないし、大丈夫じゃないときに大丈夫なときもあるし、大丈夫で大丈夫なときもあるし
ずっと同じ状態はないし、いつも上がっては下がって上がってを繰り返して毎日を過ごしてる
みんなそうじゃないの?わかんないけど
靖子ちゃんのブログが終わってしまうこと、それは人のことをちゃんとゆっくり考えられるひとが少なくなってしまったこと、そういうこと