渋谷という街

渋谷駅を10年くらいつかっていて、アルバイト先が渋谷であったり、渋谷にある塾に通っていたり、といろいろ使っているのですが、

人混みって都合いいときはいいけど、いやなときはとことんいやになる

 

辛いことがあって泣きながら帰ってもだれも顔を見てこないから何事もないように帰れるし、

ひとの流れに沿っていけばなんとなく場所にはいけるから楽

 

でも、そうじゃないとき、

大きなひとの流れはあっても個人個人がひしめき合って動いてるかんじが気持ち悪い

自分勝手なひとは人目を気にせず立ち止まったり、我が物顔で逆行したりする、

自分も余裕ないときそうなってしまっているから強くは言えないけれど

 

ただ、その自分の思うままに他人を無視して勝手に動くのと、自由に他人に迷惑をかけずに動くのは違う

 

そうやって思わせるのが人混みで、自分は果たしてどうなのかとかおもってしまうよね、勝手に!

 

あと混んでるホームとか電車とかだと絶対自分優先で動くひとばかりだから、ひとってこんなものなのかなって悲しくなる

まったくの他人にまで優しくいられる余裕を持つ人なんて全然いないだろうけど、他人を力で押し除けて突き進むひとってどうなのでしょう…

 

きょうも階段でみんながのぼってるところに無理やりくだってるお兄さんがいたけど、全員超迷惑だったし、前にいたおじさんはあからさまにいやそうな顔してた、でもそのお兄さんは本当に前だけを向いてだれの顔も気にせずに突き進んでた

たとえば、自分のやりたいことをみんなの反対を押し除けてやるひとだとか時代に逆行するだとかに例えるとしたら、そう考えたら「勇気あるひと」とか「パイオニア」だとかになるかもしれないけど、

それを良い風に思うひとが全くいなくて、他人の場所とかを踏みにじってるとしたら?だめじゃん

 

ものは考えようではあるけれど、そういうふうに考えてしまうわたしからしたら、人混みのなかを進んでいくときにどうしてもそうやって考えてしまう

いつも、いつも、

この流れに乗っていくのか逆流していくのか、スイスイ自由にいけたらいいんだけどね、でもひとの道を塞いだらしたら駄目だからね

 

という理由と、

 

話していたり、楽しそうにしていたり、忙しそうにしていたり、いろんな人を見るとどうしても自分には味わえない経験をしているのかと思って悲しくなってしまう

 

だれもわたしの経験をできないし、わたしもだれの経験もできないけど!それはわかってる!

 

ただ、「泥酔してみんなで超潰れて〜全然覚えてないの〜でもたのしかった!」とか「クラスみんなでどこどこで打ち上げしよう!」とかもっと些細なことでも、

自分の性格からしてできないこと、体質からしてできないこと、年齢からしてできないこと、過ぎてしまったことへの悲しみ、

わたしはわたしの過去で大正解だと思うしなにも悔いはないけれど、欲張りに他の人生も覗いてみたくなってしまう

 

その自分の欲張りなところとか、絶対にできないことへの情けなさとか、そういうところがピンポイントでわたしの心に突き刺さる

みんなが羨ましいの、心から、わたしのことが羨ましいひともいるかもしれないけれど

 

わたしの知らない世界はまだ信じられないくらいあって、でも全部を知ることはできない、だからここにとどまることしかできない

 

ぐるぐる考えが巡ってるうちに、いろんな音がガヤガヤ混ざって知らない音になる、知ってる街がまるで知らない冷たい街になる、それが怖い、

見捨てられてもいいけど、自分にはできないからしょうがないって、ただ、街に突き放されたわたしの行き場所がそうして少しずつ減っていく、

 

だから、騒がしい街は苦手、人混みは嫌い

わかりやすい理由になるでしょうか、

応用してスカイツリーとか高いところにのぼって住宅街とか周りの風景(自然じゃないもの)を見るのも苦手です、自分の知らない人生がひしめき合う現実を突きつけられるから